ヤルタ・ポツダム体制を打破するために

スターリンの残滓

 北方領土問題が決着に向けて動きはじめていますが、現在の領土交渉はソ連崩壊後に始まったものです。

 冷戦時、ソ連は北方領土問題の存在を認めませんでした。しかしソ連崩壊後、ロシア連邦のエリツィン大統領は「スターリンの残滓」として北方領土問題の存在を認め、日ロ両国は「法と正義」に基づいて交渉で問題を解決することに合意しました。

 現在の報道ではあまり触れられていませんが、北方領土交渉の出発点は、「法と正義」に基づき「スターリンの残滓」を精算すべきだというロシアの倫理的要請があったのです。「スターリンの残滓」を精算するとは、ソ連の対日参戦を決定したヤルタ協定とそれに基づく「ヤルタ・ポツダム体制」(YP体制)を精算することに他なりません。

 ここでは、このような観点から北方領土問題を論じた稲村公望氏(中央大学客員教授)の記事を紹介したいと思います。以下の記事は本誌2009年4月号に掲載されたもので、外国人の理解を求める意味で、英文も掲載します。ぜひご覧ください。(YS)

北方領土問題を解決し、ヤルタ体制打破の契機とせよ

 麻生内閣の支持率が下がり、解散風がいつ吹くかという情勢である。だが、外交は待ったなしである。世界経済が急激に失速する中で、米国はブッシュからオバマへ政権交代をしたが、日本は市場原理主義に抵抗する勢力が残存したおかげで、経済的破滅は免れている。天佑である。今こそ自立自尊の日本を作り上げる好機である。

 衆講院は未だに市場原理主義、拝金主義の残党が混乱を引き起こしているが、参議院は野党勢力が過半数を占めている。衆参のねじれ現象が、いかに戦後の対米従属体制を一掃するかという議論を活発化させているのだ。激動する世界情勢に打って出て、自立自尊の日本を目指すべきだと主張する契機がもたらされたのである。

 こうした観点からすれば、麻生総理のサハリン訪間は劇的なことだ。一方、ロシア側がメドベージェフ大統領を極東に派遣したことも重要な動きである。市場原理主義の旗手だった小泉元総理のモスクワ肪問には、プーチン首相との会談が設定された気配はない。小泉訪ロには郵政民営化委員会座長の田中直樹氏などが同道しているが、ロシアとしては、この時期に日本版ネオコンの一行を厚遇するわけがない。来訪の意義は、せいぜいモスクワにおける自動車会社の脱税事件の後始末ぐらいに受け止められるのが関の山だ。小泉訪ロはロシアが日本の新自由主義・オルガルヒを歓迎しない事例となったにすぎない。

 日口関係に関連して、米国は国務長官を日本に急派した。その結果、麻生総理がオバマ新大統領が初めて接見する外国首脳となることが決まった。だが、あくまでも米国に呼びつけられた話である。米国の威信低下の中で、麻生総理は黙して語らずにサハリン訪問の策を選んだ。安倍、福田両政権のように、「虎の尾」を踏む前に米国から逃げ回る事態は回避されていると言える。

 ヤルタ体制が弱体化すれば、日本は否応なく自立自尊の在りようを選択する外ない。しかし、そうして日米が対等な関係を築く方が、従来通り日本が米国の衛星国に甘んじる従属関係よりも、日米の真の友好関係構築に資するであろう。

 日本が「北方領土」と呼ぶ島々は、ロシアでは「クリール」と呼ばれている。だが、日ロ両国はあくまでも平和裏に条約で千島樺太に国境線を引いたのだ。平和裏に成立した国境線を暴力によって一方的に変更したのは、日ソ中立条約を破ったソ連であり、ソ連を唆した米英の連合国である。この歴史的事実は忘れるべきではない。その意味で、日ロ両国が再び平和裏に領土交渉を行った結果、北方領土が日本に返還されるならば、それは対日侵略国としてのロシアの汚名をそそぐ機会でもある。

 日本国内には、プーチン首相の来日はロシアの対日関係を打開する契機とはならないと悲観する向きもある。しかし、今こそ東アジアの枠組みを友好的なものとして再構築するためにも、日本は北方領土問題を解決し、ヤルタ体制を終焉に導くべき時である。世界が流動化した現在こそ、日本にとって千載―遇のチャンスなのだ。

 確かに日本の露悪感情は強い。しかし現在のロシアは旧来の共産党体制ではない。世界革命の陰謀もない。むしろソ連崩壊後の大混乱を乗り切って再びかつての栄光を取り戻しつつあるロシアに対して、「スターリンの残滓」、すなわちヤルタ体制の残照を一刻も早く取り除くべきだと促すべきではないのか。

 だが、チャンスは瞬間的に掴まなければ消え失せるものだ。他国の干渉を排して日ロ両国の国益に合致する枠組みを構築するには、急を要すると言わざるをえない。

 また日ロ両国の安定した協力関係は、日ロを市場原理主義の枠組みに組み込み、それぞれの天然資源を掠め取ろうという欧米系外資の野心を抑制する上でも、重要である。

 日ロ関係の改善は、南北朝鮮問題の改善とも連動させなければならない。日本が旧宗主国としての矜持を持つならば、日本が朝鮮半島に有する資産を放棄するという形で行われた一方的な戦後処理に対する悔しさを嚙み締めつつも、そのレベルに留まらず、南北朝鮮問題に日本やロシアが連携して関与する方向を目指す方が実のある結果を生むはずだ。そのためにも、日ロは北方領土問題やシベリア抑留間題など、両国間に突き刺さっている棘を早急に抜かなければならない。

 最近、地図帳を見ながら南北を逆さにしてみて驚いた。南西諸島がクリール、台湾がサハリンの位置にあることに気付いたからだ。

 大東亜戦争後、日本が放棄した台湾の政治的空白に乗じて、蒋介石率いる国民党が軍を進めて占領した。一方、与那国以北の諸島から奄美大島までの旧琉球王国の版図は米軍が占領した。アメリカは昭和28年に奄美群島を返還し、昭和47年に北京に向けた中距離弾道弾を撤去したものの、米軍基地付きで沖縄を返還した。

 冷戦を再現させないためにも、ロシアは南千島と北千島を一挙に日本に返還する英断をすべきではないか。そうすれば、日ロ両国はソ連以前の平和的共存の時代に立ち戻ることができる。ただ、このような大構想を実現するためには両国の指導者が強くなければならない。現実的にロシアはそのような実力を持つ指導者を得ているが、日本はどうだろうか。日本でも米国の「虎の尾」を踏まない外交を展開するが、かといって米国による「トカゲの尻尾切り」をも恐れない大胆不敵な政治家たちが連合する救国政権の登場が期待されるところである。

 プーチン首相の来日で、新生ロシアが、スターリンが略奪した領土を日本に返還する決意を表明することを期待する。さすれば、ニコライの平和の鐘は、南千島ばかりではなく、全千島に鳴り響くだろう。その鐘の音がユーラシア大陸の内奥に響き渡り、朝鮮半島にも、カフカスの山々にも深く共鳴していくことは間違いあるまい。またプーチンが靖国の社に慰霊の花を手向けるだけで、積年の恨みが氷解し始めることも間違いはない。