わが国が真の独立国たろうとするならば、現在の日米関係を変えねばならない。現在の日米関係は主従の関係に過ぎないからだ。わが国が真に独立するためにも、その後に独立を維持するためにも、対米外交は避けて通れない問題である。今回は対米外交の要諦を探るべく、独自の対米自主外交を模索してきたカナダの事例を稲村公望氏に伺った。
米大統領に胸ぐらを掴まれたピアソン首相
―― カナダ外交は国際協調主義で名高い。
稲村 カナダはG8やG20に参加するなど、国際社会において一定のプレゼンスを持つ国だ。国連を中心とした国際協調外交も有名だが、特にその対米外交が注目に値する。
確かに日本とカナダは、正反対と言えるほど大きな違いを持っており、安易に比較することはできない。だが、超大国アメリカの強大な影響力の中で、どのように自国の国益を追求するのか、という課題は共通だ。カナダがこの課題に対して、どのように悪戦苦闘したのかを学ぶことは、対米自主外交を考える上で有益なものとなる。
―― カナダはどのような対米自主外交を行ったのか。
稲村 ここでは日本にとって参考となり得る二つの事例を紹介しよう。1965年のピアソン首相(1963~68年)による北爆反対演説と、2003年のクレティエン首相(1993~2003年)によるイラク戦争不参加だ。
1965年4月、ピアソン首相はアメリカのテンプル大学で講演を行った。彼はアメリカのベトナム戦争介入に理解を示しつつも、北爆はベトナムの屈服ではなく、さらなる態度の硬化を招くだけであり、停戦のためには北爆の中止が必要だと主張した。これは北爆反対演説と捉えられ、翌日の首脳会談は波乱なものとなった。ジョンソン大統領は演説を裏切り行為だと激怒し、ピアソン首相の胸ぐらを掴んで「よくも俺のカーペットに小便をしてくれたな」と罵倒したのだ。
その後加米関係は悪化し、アメリカが同盟国に供与するベトナムの情報は、カナダには提供されなくなった。
北爆反対演説は加米関係の悪化と政権の不安定化に繋がるとして、事前に国内からも反対されていた。演説後もその是非を問う議論が盛んに行われた。
だがベトナム戦争の戦況が悪化していくにつれ、この演説の評価は肯定的なものとなっていった。その結果、カナダは1967年に国連総会で公式に北爆停止を呼びかけることに至った。この事例はカナダを平和国家として評価する際に、よく引用されるものである。
だがその半面、カナダはアメリカに対して武器・弾薬を売却し、軍需景気に沸いていた。またベトナム戦争には約一万人のカナダ人が志願兵として参戦した。さらに悪名高い枯葉剤もカナダ国内で製造されていた。このことは、メープルリーフ(楓の葉)を国旗とするカナダにとってこれ以上ない皮肉だが、国家にとって不可欠なマキャベリズムを示す好例でもある。カナダの二枚舌を責めるより、そのしたたかさを見習うべきだ。
ピアソン外交は、その後カナダ外交の伝統となった。現にカナダ外務省の建物はピアソン・ビルと呼ばれ、またカナダ最大の空港はトロント・ピアソン国際空港と名付けられている。これはカナダ国民が、ピアソンを成功体験とした結果に他ならない。
―― ピアソン首相がカナダ外交のシンボルになった。
稲村 ピアソン首相はアメリカに対する反骨精神の象徴であり、それが国民に広く浸透しているという点が重要だ。
アメリカ合衆国大統領に胸ぐらを掴まれてでも、主張すべきことは主張しなければならない。現在の日本では、胸ぐらを掴まれることはおろか、そもそも主張することすらままならない。アメリカの意向を忖度する外交が罷り通っている。郵政民営化やTPPが良い例ではないか。これは独立国の外交ではない。
イラク戦争参加を拒否したカナダ
―― ピアソン外交を礎石として、カナダはイラク戦争への参加を拒否した。
稲村 2001年の9・11以後、アメリカをはじめとする国際社会はテロとの戦いに突入した。米英は同年10月にアフガン戦争を開始し、国連とNATOの承認を得たカナダも参戦した。
年が明けると、アメリカの矛先はイラクへ向けられた。イラクは大量破壊兵器を保有しているため先制攻撃を加えねばならない、とアメリカが主張し始めたことにより、イラクへの武力介入の是非が国際的な問題となった。国連はイラクへ武力介入するかどうかは、大量破壊兵器の有無によるとして、それを確認する査察団をイラクに派遣した。そして2003年2月に、査察団によって大量破壊兵器は発見されなかったという結果が報告された。
以下全文は本誌10月号をご覧ください。