亀井静香 靖国神社にもの申す 西郷ら賊軍もお祀りせよ!

靖国神社は長州だけの神社ではない

―― 今年も8月15日が巡ってきた。あらためて、先の大戦の意味、そしてこの戦後68年間の意味について考えてみたい。終戦時、亀井氏はどのように感じられたか。

亀井 終戦時、私は小学3年生、9歳で、素朴な軍国少年だった。広島の亀井家というのは貧乏な農家だったけれども、それなりに名前が通っていて、親父も村の助役をしていたものだから、作ったコメなんかみんな供出していた。自分たちはイモを食ってしのいでいた。終戦間際には、本気で竹槍で戦おうと思っていたんだ。いざ日本が負けた時には、肥後守で兄と割腹しようとしたのを止められた。

 原爆が投下された8月6日、姉が爆心地から80キロほどの場所で被曝して、それでも救援のために多くの女学生と一緒に爆心地へ通い、二次被曝に苦しみ、後に亡くなった。

 そんなこともあって、戦後社会を生きていく中で、何度も8月15日の意味についてはよく考えるようになった。そして、何か、日本人が日本人でなくなってしまったような違和感を覚えた。どこから日本人はおかしくなってしまったのだろうと考えた時、問題を象徴するものとして靖国神社を考えるようになった。

 靖国神社には毎年参拝しているが、それは対外戦争で命を落とされた方への感謝と慰霊の心からだ。しかし靖国神社そのものには、問題がある。それは参拝の是非やA級戦犯合祀などではなく、もっと根本的なものだ。

―― 靖国神社のあり方そのものに問題がある。

亀井 明治維新以来の日本政治の問題点が、靖国神社の歴史に凝縮されている。

 そもそも、明治4年に東京招魂社として設立されて以来、靖国神社はお国のために命を落としてきた方々の霊を慰めるための施設だ。その原点には、「五箇条の御誓文」に込められた明治維新の理念がある。それは「一君万民」、「万民平等」の理念だ。お国のために戦った人間に差別などない。

 しかし実際には、靖国神社には戊辰戦争で賊軍とされた会津藩はじめ奥羽列藩同盟の人々や彰義隊、西南の役を戦った西郷隆盛などは祀られていない。勝てば官軍、負ければ賊軍だが、結果はどうであれ、どちらも国を想う尊皇の心ゆえに戦ったことに変わりはない。大御心に照らせば、敵味方に関係なく、国を想う、尊皇の心を持ち、命を落としていった人々はすべてお祀りするべきだ。

 結局、靖国神社は明治新政府内の権力闘争をそのまま反映した施設になっている。つまり、官軍である長州藩中心の慰霊施設、いわば長州神社というべきものだ。大鳥居を入るとすぐに長州藩の大村益次郎像が立っているが、彼は彰義隊が立てこもった上野の山を睨みつけている。これが長州神社という性格をよく表している。

 明治維新から昭和20年8月15日に至る日本の近代史は、ある意味、政府内の権力闘争が明治維新当初の理念を捻じ曲げ、天皇陛下のお立場そのものさえ危機に追い詰めてしまった歴史だ。長州閥は天皇陛下を利用し、時に「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸と」しつつ、自らの権力を拡大していき、その帰結として先の敗戦があるとも言えるのだ。……

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