本誌編集部 金玉均と安重根

(前略)

安重根と伊藤博文暗殺

 従軍慰安婦問題で日韓関係が悪化している最中の今年1月19日、中国ハルピン駅に「安重根義士記念館」が完成した。

 韓国の朴槿恵大統領は「歓迎し、高く評価する」と発表、一方我が国は「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物だ」(世耕弘成官房副長官)と抗議した。

 安重根は現在の悪化した日韓関係を象徴する人物になった感がある。

 安重根は明治12年、現在の北朝鮮で両班の家に生れ、若くして反日独立闘争に身を投じた。同志と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り、大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて、決起を促した。

 安重根はかねてから伊藤博文こそが朝鮮植民地化の元凶だとして、暗殺の機会を狙っていた。

 明治42年10月26日、初代韓国総監を務めた伊藤博文がロシア蔵相のウラジミール・ココツェフと会談するためハルピンに赴いた。

 午前9時、伊藤はハルピン駅に到着し、ホームでロシア兵を閲兵していた。その瞬間、群衆を装って近づいた安重根が拳銃を発砲した。

 安重根は伊藤が倒れたのを確認するや、「コリア ウラー!」(韓国万歳)と叫び、逃げることなく、ロシアの官憲に逮捕され、日本側に引き渡された。

日露戦争を高く評価した安重根

 旅順の関東都督府地方法院で裁判を受けた安重根は、公判で次のように陳述している。

 「日露戦争の際、天皇の宣戦の詔勅は、東洋平和を維持し、大韓民国を強固にすると書かれていた。

 このような大義は、青天白日の光線よりも勝っていたのであり、韓清の人々は智愚を論ずることなく、みな心を同じくして、賛同し服従したのである。

 もう一つは、日露の開戦は黄白両人種の競争というべきものであって、前日の仇敵の心情がたちまちに消え、かえって一大愛種党となるに至った。これまた人情の順序であり、理にかなうものだった。

 快なるかな、壮なるかな、数百年来、悪を行い続けてきた白人種の先鋒が、鼓を一打しただけで大破してしまった。千古に稀な事業として万国で記念すべき功績であった。

 この時、韓清両国の有志は図らずも同じように、自分たちが勝ったように喜んだ」(中野泰雄著『安重根』亜紀書房)

 伊藤の死により韓国併合の流れは加速され、伊藤暗殺は大韓帝国の消失という結果をもたらした。当時の朝鮮族や今日の韓国では、抗日義士であったとして英雄視されている。

 他方、事件当時、玄洋社や明治日本の知識人は「安重根は単身で要人暗殺を完遂した汎アジア主義の志士である」と評価する人々も多数いた。

 動機と犠牲精神の純粋性に共感し、助命嘆願をする者もいたのだ。

 安重根の書いた「東洋平和論」はこの汎アジア主義に極めて近い思想であり、日本の右翼にも共感できる部分が少なからずあった。……

全文は本誌5月号をご覧ください。