ポエムとしての真珠湾演説

真珠湾に似つかわしくない演説

 12月28日に安倍首相は真珠湾を訪れ、「和解の力」と題する演説を行いました。これに対して、アメリカのCBSテレビは「詩的で感動的なスピーチで和解を強調した」などと報じました(12月28日付毎日新聞)。

 アメリカのテレビ局が指摘しているように、安倍首相の演説は実に詩的なものです。例えば、安倍首相は演説の冒頭で次のように述べています(首相官邸HPより)。

 パールハーバー、真珠湾に、今、私は、日本国総理大臣として立っています。

 耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江。

 私の後ろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。

 これは安倍首相が一人で考えたものではなく、彼のブレーンたちと必死になって考えたものだと思います。しかし、日米の和解という問題はひとまず抜きにして、率直に言ってこのような稚拙な表現が真珠湾という場に似つかわしいものであるかどうか、疑問を感じざるを得ません。

 これはコラムニストの小田嶋隆氏が言うところの「ポエム」でしょう。小田嶋氏は『ポエムに万歳!』(新潮社)の中で、次のように述べています。

 たとえば、書き手が冷静さを失っていたり、逆に、本当の気持ちを隠そうとしてまわりくどい書き方をしていたりすると、そこにポエムが現出する。最も典型的な例では、青年誌の水着グラビアページが、ポエムの黄金郷だ。

 直視をはばかる画像と、それを眺める青年の劣情を詩的感興に似た場所に着地させるためには、ポエムという、論理に依らない、欲望と感情のレトリックがどうしても必要だからだ。

 ここで言うポエムとは、論理に依らない、欲望と感情のレトリックのことを指します。安倍首相のこれまでの言動を振り返ると、今回に限らず、あらゆるところでポエムを撒き散らしていることがわかります。

 これは「反知性主義」と言い換えることもできます。安倍首相の強さは、論理や実証性に反することをしても、それを全く恥じないことです。

 ここでは、弊誌2015年9月号に掲載した、作家の佐藤優氏と哲学者の山崎行太郎氏の対談を紹介したいと思います。

反知性主義とは何か

佐藤 まず私の問題意識からお話ししたいと思います。反知性主義には二重の構造があります。一つは、無知蒙昧を恥じないという側面です。例えば、内閣官房副長官補の兼原信克さんが『戦略外交原論』という本を出しています。彼はその中で、名誉革命の結果マグナ=カルタができたと書いています。しかし、名誉革命が起こったのは1688~89年、マグナ=カルタが作成されたのは1215年です。その他にも、宗教改革はイタリアから始まったとか、「スフ」が火炙りにされたなどと書いています。これは「フス」の間違いですね。

 他方で、反知性主義には無知蒙昧とは異なるもう一つの側面があります。それは知性の限界を知り、それを超克するというものです。近代になるまでは、合理性によって世界全体を説明できないということは、自明でした。ところが近代以降、理性によって全てを説明できるという考え方が出てきた。これが主知主義(知性主義)であり合理主義です。しかし、これらは結果的に第一次世界大戦をもたらしました。

 当時の優れた思想家たちは、それ以前からこうした知性主義の危険性を見抜いていました。例えば、1905年のロシア第一次革命の頃に現れた「道標派」と呼ばれる人たちです。彼らはもともとロシアにマルクス主義を導入した人たちでしたが、ロシア革命が起こる中で、合理性では割り切れない要素が捨象されていることに危機感を抱くようになりました。これが知性の限界を知っているという意味での反知性主義です。

 しかし、こういう反知性主義がレーニンやトロツキー、スターリンによって実践運動に利用されるようになると、知性を馬鹿にし、無知蒙昧でも構わないというように変化してしまいました。スターリン自身はインテリでしたが、スターリン主義者たちは本当に粗野で、「この野郎、言うことを聞かないならもう少し殴ってみるか」と、このような感じでした。

 このように、知性の限界を知っているという意味での反知性主義は、すぐに無知蒙昧型の反知性主義に転化してしまいます。しかし、表面的な言説だけを見ると、両者は非常に似ていて見分けがつきにくいんです。

山崎 知性の限界を知り、それを超克するとは、例えば神を信じたり直観を重視するということだと思います。しかし、これらは上っ面だけを見れば、単に知性が足りないだけのようにも見える。実際、知性に反しているという点では、両者には似たようなところがある。しかし、これらは本質的に異なるので一緒にしてはならないということですね。

佐藤 私は反知性主義について議論する際、必ず「反知性主義とは、実証性と客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度である」という暫定的な定義から始めるようにしています。それは、無知蒙昧型の反知性主義と、知性の限界を知り、それを超克するという意味での反知性主義を区別するためです。私が批判しているのは前者の方です。

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