佐高信×山崎行太郎 論争なき保守は滅びよ

なぜ曽野綾子は論争から逃げるのか

―― 佐高さんは山崎さんの『保守論壇亡国論』をどのように読みましたか。

佐高 私は山崎さんの『保守論壇亡国論』を読んだとき、江藤淳の「ロール(役割)」と「サブスタンス(実質)」という言葉を思い出しました。かつて江藤淳は大江健三郎を「大江はロールだけで書いている、サブスタンスがない」と批判した。江藤の批判が当たっているかどうかは別にして、その視点は新鮮だなと思いました。

 山崎さんもまた、保守論壇においてロールだけでやっている人たちを批判しているのだと思います。現在の保守論壇はサブスタンスを失ってしまっている。だから、もう一度ちゃんと線を引き直そうよということでしょう。

山崎 その通りです。私が本書で批判した人たちには、何か一つのテーマを追求しようという姿勢が見られません。自分自身のテーマというもの、自らの存在と直結したもの、そういったサブスタンスを持っていない。私の言葉で言うならば、「存在論的思考」ができず、「イデオロギー的思考」に囚われてしまっている。それが保守論壇の劣化を招いたというのが私の認識です。

佐高 私もその通りだなと思ったので、『サンデー毎日』の連載で曽野綾子氏に対して、「あなたは山崎氏の批判に反論すべきではないか」と批判しました。

 ところが、曽野氏の反論は、「私が佐高との対談を断ったのは、佐高を嫌っているからだ。対談を申し込まれたら必ず応じなければならないという義務はない。それは『ストーカー』の論理だ」などと述べているだけで、山崎さんの批判については何も答えていませんでした。

 これでは言論戦など成り立つはずがありません。論争とはある面において、ここは正しいけどここは間違っている、ここは同じだがここは違う、ということを確認していく作業でしょう。

 例えば三島由紀夫にしても、東大に乗り込んで全共闘と討論し、「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」と述べ、相手とどこが同じでどこが違うのかを確認している。

 しかし、曽野氏はこちらの批判を無視し、問題をそらす。彼女は、相手とどこが同じでどこが違うのか、自分がどういう位置づけであるかといったことはどうでもいいのでしょう。その意味で、彼女には思想がない。彼女の議論の底が浅いのもそのためでしょう。

山崎 『サンデー毎日』で取り上げていただきありがとうございます。曽野氏が論争から逃げるのは、サブスタンス、あるいは存在論的思考がないからでしょう。もし本当にサブスタンスを持っているならば、論争から逃げることはできないはずです。自らの存在と直結する問題なのだから、自らの全存在を賭けて一線を守ろうとするはずです。

 曽野氏が沖縄集団自決をテーマとして選んだのも、自分自身にとって重大な問題だったからではなく、世間で騒がれていたからといった程度のことでしょう。大江健三郎が『沖縄ノート』を書いたのとは訳が違います。

 何か話題になっている事件を見つけては、現場に行ってルポタージュのようなものを書くというのは、敢えて言うならジャーナリスティックな手法です。確かに事件の余韻が残っている間は、その著作は売れるかもしれません。場合によってはベストセラーになるでしょう。しかし、事件の話題性に依存しなければならないというのは、自らの文学的才能がないことを認めているようなものです。

 三島由紀夫にも事件を題材としたものはありますが、三島の場合は、事件自体は忘れられても作品は残っています。

佐高 言論活動とは常に真剣勝負であって、命懸けの戦いです。私も人を批判する以上、自分を批判する人から取材を申し込まれても、それを断ることはしません。それが言論で立つ者の最低限のルールでしょう。曽野氏には「ストーカー」とも対話するような逞しさを持ってもらいたいものです。

想像力の欠如した言論人

山崎 曽野氏の大江健三郎批判は、「大江は集団自決のあった島に行かずに、文献を読んだだけで本を書いている。自分は実際に島に行って現地の人たちの話を聞いてきた」といったものです。

 しかし、島に一週間滞在したからといって、集団自決の真実が見えてくるわけではありません。現地に行けば現地のことがわかるといった発想はいかにも安易です。

 大江氏はあらゆる文献を読み込み、自らの作家的センスで分析していったわけですが、むしろそちらの方が真実を映し出している可能性だってあるわけです。

佐高 それこそ文学の役割ですね。カメラじゃないんだから、映っていればいいというものではない。

山崎 曽野氏は30年ほど前に、沖縄戦について描いた『鉄の暴風』の著者の一人である太田良博氏と、沖縄タイムズ紙上で論争をしています。沖縄タイムズはもちろん沖縄では有力なメディアですが、本土では購読している人が少ないこともあり、この論争はあまり注目されていません。

 曽野氏はそこで太田氏を見下したような発言を繰り返し、挙句の果てに「太田氏という人は分裂症なのだろうか」とまで言い放っています。現在ほど差別用語に敏感ではなかった時代だったとしても、この発言はいかにも行き過ぎであり、恥ずべきものです。

 また、この論争では、太田氏が具体的に反論を行い、曽野氏を論理的に追い詰めています。しかし、保守論壇では驚くべきことに、曽野氏が勝利したかのように扱われているのです。

佐高 曽野氏には想像力が欠如しているようですね。人に対して「分裂症」などとはなかなか書けるものではないですよ。

 曽野氏は以前『サンデー毎日』に連載を持っていたのですが、部落問題に関する記述が原因で連載中止になりました。このコラムは曽野氏の『運命は均される』という本に収録されています。そこには「自分は東京生まれ東京育ちだが、日常生活で部落問題が話題になった記憶はない。そんな自分に部落差別について教え込もうとする人たちがいる。差別を知らない人間に同和教育を吹き込むな」といったことが書かれています。

 自分が差別は無いと言っているのだから差別は存在しないのだ、といった態度です。曽野氏の想像力がどれほど欠如しているかがよくわかります。……

以下全文は本誌12月号をご覧ください。