栁澤協二 合理性がない安倍政権の安保政策

安倍政権の安保政策は非合理である

―― 第三次安倍政権の下で、今後、これまでの安保政策をさらに進めていくことになると思われます。しかし第一次安倍政権で内閣官房副長官補(安保担当)を務められた栁澤さんは、著書『亡国の安保政策』(岩波書店)で、安倍政権の安保政策に警鐘を鳴らしています。

栁澤 安倍政権の安保政策は不思議で仕方ありません。安全保障の観点からすると不合理な政策が多すぎて、日本の安全保障を強化するどころか、むしろ弱体化させているのが現状です。

 たとえば日本版NSCのような枠組みは、以前から存在していました。関係閣僚の少人数会合や各省局長級のチームが安全保障の役割を担い、しっかりと機能していましたので、わざわざ制度化する必要性が分かりません。国家戦略を転換して制度化が必要になったと言うならまだしも、政府はわざわざ制度化する理由を説明せず、国家戦略を転換した様子もありません。

 特定秘密保護法も「日本に秘密保護法制がないから外国から情報がもらえない」という口実で作られましたが、実際に秘密保護法制がなくて情報をもらえなかった実例があったのでしょうか。少なくとも私の経験上、そういうことは一度もなく、北朝鮮の核・ミサイル実験やイラクの武装勢力の状況など、日本の危機管理に必要な情報は外国から提供されていました。政府が実例を証明しない以上、立法事実はないに等しい。

 集団的自衛権の必要性も理解できません。政府は「緊迫した危機が迫っている。憲法改正が望ましいが、それでは手続きに時間がかかる。国民の安全を守るという政府の責任を果たすには、解釈改憲しかない」と説明しましたが、安倍政権は選挙の都合で集団的自衛権の関連法案の審議を2015年春以降に見送っているではありませんか。また普天間基地の辺野古移設についても、政府の計画では、普天間基地は5年で停止する一方、沖縄の辺野古移設は10年で完了するとされ、5年間の抑止力の空白を容認しています。

 安倍総理は誰もが否定できないシンボルを使います。「米艦に載っている日本人の母親と子どもを守らなくていいのか」と言われれば、「守るべきだ」と答えるしかありません。しかし「じゃあ集団的自衛権を認めます」と続けるわけですが、その「じゃあ」に論理的飛躍があるわけです。母子を守ることと集団的自衛権を認めることの間にある論理的連関性が何も示されない。

 集団的自衛権を行使する新しい三要件も非合理的です。安倍総理は、「9・11米同時多発テロは新三要件に当てはまらない」(7月14日、予算委員会)と答弁する一方、「ペルシャ湾の機雷封鎖は三要件に当てはまる可能性がある」(12月1日、党首討論)と言っています。しかし両者を区別する客観的な基準が不明です。だから安倍総理が両者を区別した基準は「そう思うから、そう思う」という主観にすぎないということです。

 結局、安倍政権の安保政策は全て不可解なのです。政府の説明は主観的・非合理的・非論理的であり、なぜ、何のためにその政策をやらねばらないのかが、客観的・合理的・論理的に理解できないのです。

安倍総理の真の戦略

―― しかし、安倍総理には安倍総理なりの論理性があるのではないでしょうか。

栁澤 つまりそれは安倍総理の主観的合理性はあるが、安保政策上の客観的合理性はない、ということを意味しています。結論を言います。安倍総理の安保政策は、国家国民の安全を保障するためではなく、自分の情念を満足させるためのものです。日本国家の国益よりも自分自身の情念を優先する「亡国の安保政策」なのです。

 安倍総理の情念とは何か。その謎を解く鍵は、安倍総理の著書『この国を守る決意』の中にあります。安倍総理はこの本の中で、次のような見解を明かしています。

 「自分の祖父・岸信介は、日米安保条約の双務性を高めるために六〇年安保改定を行った。それは、祖父の時代のぎりぎりの努力の結果だ。我々の世代には新たな責任がある。それは、日米安保条約を堂々たる双務性にしていくことだ。今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊はアメリカが攻撃されたときに血を流すことはない。そういう事態の可能性は極めて小さいが、それでは完全なイコールパートナーとは言えない」

 これが安倍総理の情念です。安倍総理は、合理的に日本の安保体制を強化しているのではなく、お祖父さんがやり残したことをやり遂げようとしているだけです。この情念を誤魔化すために理屈をこじつけるから、説明が非論理的にならざるを得ない。そして第一次安倍政権(2006~07年)当時にやり残した時代遅れの政策(日本版NSC・特定秘密保護法・集団的自衛権)を持ち出すから、政策目標が非合理的にならざるを得ないわけです。……

以下全文は本誌1月号をご覧ください。