琉球独立論を軽視してはならない理由

明治維新と琉球独立論

 大阪府警機動隊員の「土人」発言に対して、沖縄では反発の声が強くなっています。日本政府がしっかりと対応しなければ、沖縄はますます日本政府から離れていき、独立への道を歩みだしてしまう恐れがあります。

 「沖縄は独立しかねない」という議論をすると、多くの人たちが「沖縄が独立することなどあり得ない」、「沖縄県民の多くは独立など望んでいない」といった反応を示します。おそらくこの認識は正しいと思います。沖縄県民の多くは独立など夢にも思っていないでしょう。

 しかし、独立や革命とは、大多数の人々がそれを望んでいるから実現するというものではありません。それは明治維新について考えればわかります。明治維新は長州藩や薩摩藩などの一部の武士たちによって遂行されました。当時の日本人の大多数は維新になど何の関心もなかったはずです。それでも維新は完遂されました。革命や独立とはそういうものです。

 それゆえ、「沖縄県民の多くは独立しようと思っていないので、独立する可能性はない」という議論は間違いです。「沖縄県民の多くは独立しようと思っていないにもかかわらず、独立する可能性がある」と考えるべきです。だからこそ沖縄の現状を軽く見てはならないのです。

 ここでは、弊誌4月号に掲載した連載記事「琉球独立論の論理と心理(中)」を紹介したいと思います。(YN)

琉球独立論の論理と心理(中)

 松島泰勝は『琉球独立論』(バジリコ)で、「民族」について次のように定義している。《「民族」という概念は、使用されるケースによってその意味が微妙に異なる場合が往々にしてありますが、本書ではDNAを基準とした「人種」とは峻別し、一定の年代において風土、文化、言語などを共有する、つまり歴史を共有する共同体と定義しています。》

 しかしこれだけでは、何をもって「歴史を共有する」とするか明瞭でないことは前回述べた通りである。

 松島は他の箇所でも民族について定義している。

 《琉球人という民族に帰属するのかどうかは、特定の定義・指標に基づいて他者が決定すべきではありません。各個人が自らを琉球人であると自覚し、他の琉球人もその人を同じ民族であると認め、互いに協力しながら生活し、脱植民地化運動をする過程で琉球という共同体が形成されていくのです。》

 また、新著『琉球独立宣言』(講談社)では次のように述べている。

 《民族としての琉球人は、種族的、つまり「血」によって決定されるというよりも、市民的な自由意志に基づいて「自分は琉球人である」という自覚を持つことで、琉球人になるのです。民主主義的に、琉球の人々による合意にしたがってアイデンティティ共同体が形成されます。他者が、ある一定の尺度をもって琉球人を定義するという性質のものではありません。》

 つまり、「自分は琉球人である」と自覚すれば琉球人になれるということである。しかしそれでは、福岡出身の父と北海道出身の母を持ち、大分で生まれ福岡で育った人間が、齢30にして琉球人としての自覚を持ち、琉球に移り住んで一生を過ごすとした場合、琉球人たちはその人間を同じ琉球人だと認めるだろうか。

 松島は民族と人種の違いにこだわるが、松島の定義する民族には人種的要素が入り込んでいるように見える箇所がある。『琉球独立論』では次のように述べている。

 《本書で使う「民族」という概念は、言語・文化を歴史として共有する共同体のことであり、DNAに基づく「人種」ではありません。実際、琉球にも中国や日本その他の国に出自を持つ、あるいは混血の「琉球人」は少なからず存在します。そのあたりは、自らを単一民族であると主張する日本人とて同様です。》

 ここに「混血」とあるが、琉球人の血が入っていることが琉球民族の前提となっているようにも読める。また、次のようにも述べている。

 《民族や国家という概念は近代の産物です。しかし人類学、考古学、歴史学等の研究成果によれば日本人とは異なる琉球人の存在、日本国とは異なる琉球国の存在が実証されていることも事実です。》

 一般的に自然人類学には遺伝学も含まれるため、これも人種的要素と言えなくはない。

 これまで松島の議論を細かく見てきたのは、何も揚げ足を取るためではない。松島の民族についての定義の不明瞭さを批判しても意味がない。何故、松島が頑なに人種による定義を排斥しようとしているのかを考えなければならない。

 それは一つには人種主義がナチズムを想起させるからであろう。日本の抑圧を打破するために琉球独立を唱えているにもかかわらず、それをナチズムと同一視されたのでは堪ったものではない。

 また、日本本土で強くなっている排外主義と同一視されるのを避けることも目的であろう。実際、松島は琉球独立論を排外主義と見なす新城郁夫の議論に強く反発している。

 さらに、排外主義的な態度で琉球に接してくる日本と同じレベルに堕落したくないというプライドもあるだろう。

 松島の議論の誠実さに疑いはない。しかし率直なところ、「歴史の共有」を強調するだけでは、琉球を一つにまとめるのは難しいように思う。また、「歴史の共有」の強調が新たな問題を生じさせる恐れもある。それは、八重山諸島や奄美諸島の人たちが、かつて琉球によって武力で併合されたという歴史を強く意識するという問題である。

 松島もそのことに気づいており、《王国や沖縄島の人々による支配や差別の歴史を無視した琉球独立論は、沖縄島、首里・那覇中心の独りよがりの独立論と言われてもしかたがありません。》と述べている。

 しかし、琉球ナショナリズムを抑えるのが困難であるように、八重山や奄美のナショナリズムを抑えるのも困難である。それは八重山日報が翁長県政を激烈に批判していることからも明らかだ。次回はこの問題を掘り下げていきたい。(文中敬称略)