商売としての排外主義

ヘイトスピーチで金儲けする出版業界

 最近の日本の論壇は韓国や中国などに対するヘイトスピーチであふれかえっています。講談社のような大手出版社からも、ケント・ギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』というヘイトスピーチ本が出版されています。

 なぜ出版社は次々とヘイトスピーチ本を出版しているのでしょうか。それは一言で言えば、金になるからです。彼らの目的は主義主張を訴えることではなく、金儲けをすること、ただそれだけです。ヘイトスピーチ本で金儲けをしなければならないほど、経営的に苦しい状況に置かれているのでしょう。

 もちろん日本は資本主義社会ですから、金儲け自体は否定すべきことではありません。しかし、それが言論人としてあるべき姿かどうか、今一度問い直すべきです。

 ここでは弊誌2012年11月号に掲載した、作家の佐藤優氏のインタビュー「商売としての排外主義」を紹介したいと思います。当時の論壇は、尖閣問題について日本政府の対応は弱腰だとし、中国を罵倒するような言論であふれかえっていました。佐藤氏は排外主義を垂れ流す知識人を厳しく批判しています。

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勇ましい言論は影響力を持たない

── しかし、多くの言論誌や週刊誌は政府の弱腰を批判し、軍事力を行使せよと論じる知識人を取り上げている。

佐藤 それが商売だからです。そういう論調を読んで、「そうだ、そのとおりだ!」と叫んで胸をスカッとさせたい消費者がいる以上、需要に応じて供給して金儲けするのは資本主義経済として当然です。

 ただし、それが知識人のあるべき姿かといえば、違います。むしろ、軍事対立を煽る人々はデマゴーグ(扇動家)という、古代アテネを滅ぼした人々と重なるでしょう。

 私も言論でメシを食う立場の人間ですが、そこで譲ってはいけないものがあります。それは「話者の誠実性」です。平べったく言えば、「言っていることと自分がやっていることの間に乖離があってはいけない」ということです。「血を流す覚悟が必要だ」と論を張るならば、まず自分が「覚悟」を見せなければいけません。自衛隊に入るのは無理な年齢であっても、予備自衛官になるなり、老骨にも死に場所があったと竹島に突っ込んで行ってからすべき議論です。

── ほとんどの軍事対立を煽る知識人は、自らは安全地帯に身を潜めて、要するに「若い奴は死んでこい。俺・私はここで茶をすすって眺めている」と言っているようなものだ。マックス・ウェーバーが第一世界大戦時に軍役に志願して赴いたのは50歳の時、あるいはナチス・ドイツへの抵抗を訴えた神学者カール・バルトは53歳の時に、スイス国境警備隊で軍役している。彼らとは大きな違いだ。

佐藤 バルトの言葉がなぜ現代でも色褪せないか、それは、繰り返しますが「話者の誠実性」があるからです。確かに50代になってから戦場にいけば、それはむしろ足手まといとなります。しかし戦争は前線だけではありません。だからウェーバーは野戦病院に行き、バルトは国境警備隊に行き、そこで、自分ができる限りのことをした。思想が受肉しているのです。

 そもそも、「血を流す覚悟を」と求めるのは、普段、「血を流す覚悟を持っていない」ということです。

 一人のキリスト教徒として私は、人間の生は神の栄光のために捧げられており、その生は神の一人子であるイエス・キリストの血によってのみ贖われる、という認識を持っています。その中では、われわれの生命が常に神の栄光のために捧げられており、いつでも血を流す覚悟があるのは当然のことです。愛国者と称する知識人たちが今さら「血を流す覚悟を」と言い出すのは、今までは愛する国のために「血を流す覚悟」がなかったわけですねと考えざるをえません。