保守派の「自虐史観」

罠にはめられた責任

 甘利経済再生相の違法献金疑惑をめぐって政界が揺れています。安倍政権は火消しに奔走しており、自民党内からも甘利大臣を擁護する発言が相次いでいます。例えば、自民党の高村正彦副総裁は「わなを仕掛けられた感がある。そのわなの上に、周到なストーリーがつくられている」と述べたと報じられています(1月24日付「読売新聞」)。

 しかし、これではまるで罠にかかった人間には何の責任もないかのように聞こえます。政治は謀略の世界であり、罠にかかってしまう人間にも責任はあります。もし中国の罠にはめられて国益が大きく毀損されても、「悪いのは中国であって自分たちは悪くない」などと言うつもりなのでしょうか。

 これは端的に言って、自民党に政治的センスが欠如していることを表しています。と同時に、日本の保守派によく見られる「自虐史観」だとも言えます。

 「自虐史観」とは一般的に左派の間に見られるもので、南京事件や慰安婦問題など日本の歴史の負の部分を強調する歴史観のことだと言われています。しかし、「自虐史観」は保守派の間にも見られます。

 保守派の中には「支那事変はコミンテルンの罠だ」とか「日米戦争はアメリカが仕掛けた」などと主張し、「日本は被害者だ」、「日本は悪くない」と言い張る人たちがいます。もちろんアメリカやコミンテルンが日本に様々な謀略を仕掛けてきたのは間違いありません。しかし、これではまるで、他国が謀略を仕掛けてきた際に、日本の指導者たちは何もせずに黙って見ていたかのようです。これでは、日本の指導者たちは他国の謀略に為す術もなく簡単に騙されてしまうほど無知で無能だったと言っているようなものです。これこそ「自虐史観」と呼ぶべきでしょう。

 ここでは弊誌2013年8月号に掲載した、哲学者の山崎行太郎氏のインタビュー「なぜ保守論壇はかくも幼稚になったのか」を紹介したいと思います。なお全文はキンドル版「保守論壇亡国論序説」でもご覧いただけます。(YN)

「被害者」であることを強調する人たち

―― 保守論壇の「左翼化」は、具体的にどのような問題に表れているか。

山崎 その一つとして歴史認識問題が挙げられる。たとえば渡部昇一は、「シナ事変は今では明らかになったようにコミンテルンの手先が始めたものである」、「アメリカ・イギリスとの開戦は、マッカーサー証言の如くその包囲網により、日本の全産業・全陸海軍が麻痺寸前まで追いつめられたから余儀なくされたのである」と論じている。要するに、悪いのはアメリカやコミンテルンであって日本ではない、というわけだ。

 こうした議論からは、日本の主体性というものが完全に欠落している。これではまるで、敵国が謀略を仕掛けてきた時、日本の指導者たちは何もせずに黙って見ていたようではないか。彼らは敵国の謀略に為す術もなく簡単に騙されてしまうほど無知で無能だったとでもいうのだろうか。そんなはずはない。

 アメリカやコミンテルンが日本に対して謀略を仕掛けてきたのは間違いない。しかし、それは戦争なのだから当然のことだ。日本も日露戦争の時は明石元二郎が情報活動を行っていたし、昭和の時代には陸軍中野学校の卒業生たちが暗躍した。

 もちろんアメリカやコミンテルンの謀略に対しても、当時の日本の指導者たちは様々な形で抵抗した。しかし、残念ながら力及ばず戦争に引きずり込まれ、そして負けたのだ。「我々は悪くない」などと責任転嫁する暇があったら、「次は負けないようにしよう」「こちらから謀略を仕掛けてやる」くらいの主体性を持つべきだ。

 私は、悪いことを全て他国のせいにし、日本に責任はないとする歴史観を「受動史観」と呼んでいるが、この受動史観に囚われている人たちは、自分たちは「被害者」あるいは「弱者」であり、自分たちの手は汚れていないということを必死に証明しようとする。

 確かに「加害者」であることは辛く耐え難いものであり、「被害者」である方が楽だろう。しかし、自分たちが「被害者」であることを強調することで批判をかわしたり責任転嫁しようとするのは、それこそ悪しき左翼のやり方ではないか。ここに保守論壇の「左翼化」が端的に表れている。

 本当に強い人というものは、言い訳をしたり、自己を正当化したりしない。本当の帝国は、自分たちがやってきたことを、良い点も悪い点もしっかりと記録に残す。戦前の日本のように敗戦間際になって機密書類を焼いて捨てたりはしない。

―― 橋下市長の慰安婦問題発言にも同じことが言える。

山崎 「被害者」や「弱者」は、「子供」と言い換えることもできる。橋下市長はアメリカに対して、あなたたちも女性を利用していたではないかなどと批判していたが、これほど子供じみた振舞いはあるまい。たとえそれが事実だったとしても、黙って耐え忍ぶのが「大人」というものだろう。(以下略)